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宇宙のルールに基づき、世の中の「今」をみてみよう。きっと答えがみつかります。

「愛」とは何か? PartⅡ

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今日も引き続き「愛とは何か?」について書いていきますが
今回は最初にマスメデイアで使われている「愛」について考えてみます。

マスメデイアで使われている「愛」について

まず、テレビ番組や様々な本や雑誌などに出てくる『愛してる』という言葉は
一体何を意味しているのか?ということを考えてみましょう。
そんなこと考えたこともないといわれる方も多いとは思いますが
個人的には、単に「好きだ。」というなら分かるのですが
「愛」という言葉を頻繁に使っていますので意味不明となっているように感じますが
いかがでしょう?

お分かりの通り『好きだ』といいますのは自分の気持ちを表明しているだけであり
それ以上でも以下でもありません。
ですからこれは非常に分かりやすいのではないでしょうか?
しかし『愛している。』といった場合は「好き」以上の何かが含まれている感じがある。
と思うのですが皆さんはどのようにお考えになられるでしょうか?


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では一体「好き」と「愛してる」とはどこがどう違うのでしょう?

先ほど書きましたように「好き」といいますのは
本人の気持ちを言い表しているだけですのでそれ自体で完結しているといえますが
「愛してる」にはこの後に「だから.・・・」という付随するものを伴っているように感じられます。
そしてそこには『相手のために何かしたい』『相手に好かれる自分になりたい』
『相手をもっと知りたい』などいくつかの気持ちが含まれているのだろうとも思えますが
一体これらの気持の背後には何が横たわっているのでしょうか?

そこで、このことについてよ~く考え、それら一つひとつの糸をたどっていきますと
ある共通する「概念」に行き着くことが解りました。
それは「相手の絶対的肯定」です。
つまり「どんなに他人に批判的な人も、恋に落ちると相手を全面的に肯定する。」
「その人格も言葉も態度も、相手に付随するものはすべて肯定する境地に至る。」
ということ
わたしたちは「絶対性」や「完全性」の欠けたあやふやな世界で生きていますが
恋に落ち、好きだと思うとき、全的肯定を経験するということです。

普段、人は自分に対しても他人に対しても全的に肯定することはまずありません。
ですが恋に落ちた時、わたしたちは相手の存在が価値そのものであると感じ
それに向き合う自分は(否定されるべきものという気持ちよりはむしろ)
限りなく謙虚であろうとする気持ちに向かうといえるのではないでしょうか?


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では、この相手に対する「絶対的肯定」と
自分に対する限りない「謙虚」さは何を暗示しているのでしょう?
おそらくそれは「人に知恵なるものがどのような心的状態の時に与えられるのか?」
ということを示唆しているのだと思うのですがいかがでしょう?。
つまり人がものを知り、あらゆるものと調和しながら生きていくには
こうした「全的肯定と、限りない謙虚さが必要なのだ。」
と示しているように思われてならないのですがいかがでしょう?

しかし残念なことに、まるで相手への全的肯定と自分自身の限りない謙虚さが
一瞬の夢であったかのようにその気持ちはたちまち消え失せてしまうようです。
さらに男と女は体を許し合い、付き合いが進むにつれ
己の傲慢さに支配されるようになるといえますし、多くの方その気持ちは
相手に対する批判や否定へと発展していきます。
そしてその時、人の中で全的肯定と限りない謙虚さという崇高な価値は失われるのです。

つまり、マスメデイアが流す『愛』『愛してる』という言葉は
「絶対的肯定と謙虚さへ向かう道程を空しい漂泊に貶めるようにできている。」ということ
それが役割だということです。
(なぜそんな役割を担っているのか?これは「両極性」について考えてみれば
 お解りいただけますので、ぜひご自身でお考えになってみて下さい。)


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イエスが目指したアガペー「精神愛」「純粋な精神愛」

では次にイエスが目指したアガペー「精神愛」「純粋な精神愛」
について考えてみましょう。
この「愛」は仏教でいうところの「慈悲」に相当すると考えられますが
平たくいうとするなら「他の人を思いやること。」です。

ですが、この「愛」には「落とし穴」があると思います。
わたしたちは誰かのために何かをした時
それを当然のこととしてやり過ごすことがなかなかできません。
多くの方は心に何らかの感情を抱くはずです。
そしてそれをあえていいますと「驕(おご)りだ。」といえます。

わたしたちにとりまして誰かのために行動することはそれほど難しくはありません。
なぜならそれは皆が心に善なるものを持っており、それに導かれるからです。
しかし多くの場合、それによって「優越感」や「支配感」や「恩着せ感」といった
「驕り」を抱え込むことになるということも事実です。
そしてこれが心に宿ってしまったら、たとえ善意による行動であっても
イエスのいう「愛」にはならないということです。

お分かりの通りこれまで欧米では2000年以上に亘って
イエスの「愛」が説かれてきました。
しかし残念ながら人々の間の争いも、国の間の戦争もなくなっていません。
そしてそれは多くの人が
この『「驕り」に取り付かれ、支配されてしまったからではないだろうか?』
といえますが、もっといいますと「このことに気づくまで争いも戦争もなくならない。」
ということになると思うのですがいかがでしょうか?


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ここでひとつ例を挙げてみましょう。
旧約聖書の中に『ヨブ記』というのがありますが、このヨブは敬虔なユダヤ教徒であり
神を畏れ悪から遠ざかり、他の人々に愛や施しを行なっていたといわれています。
そして彼には7人の息子と3人の娘がおり、7000頭の羊、3000頭の駱駝、500頭の牛
500頭のロバ、そして多くの僕(しもべ)を持っていたようですので
彼は神に祝福された大いなる者だったといえます。

ところがある時、エホバから許しを得たサタンの計略によって
次から次と彼に不幸が襲いかかります。
近隣の他民族がヨブの僕を殺し、羊や駱駝やロバなどの財産を奪い
また天からは火が降り、大地からは大風が起こり
ヨブの家畜と僕は次々と滅ぼされていったのです。
しかしそれでも彼は神に背くことなく、髪を剃り、上着を裂き
大地にひれ伏してエホバを祝福します。

にも拘らず、ヨブにはさらに、全身すなわち足の裏から頭の先まで
いたるところに腫物ができるという禍が襲いかかります。
そして彼は灰の中でのた打ち回り、陶器の破片を取って身を掻くのですが
これらの恐ろしい禍を見ていた妻はついに堪えかねてヨブにこういいます。
「あなたはそれでも自らを全うする(信仰を貫く)のですか?神を呪って死になさい。」と・・・・

ですが彼は神への忠誠を翻さず、全ての息子と娘を失うという
さらなる不幸に見舞われながらも、決して神を呪うことはありませんでした。


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誰にも「驕り」という悪魔が潜んでいる。

この話は最終的に「忠誠心」を翻さなかったヨブに神が応え
サタンの試みを止めさせて、ヨブの原状を回復し
さらに元の倍もの財産と恵みを与えるというところで終わっています。

さて、一体この「ヨブ記」は何をいいたかったのでしょう?
どんな不幸にあっても神を呪わず、忠誠を貫けばいつか報われるという
宗教に最もありがちな教条的な詭弁を代表する逸話として解釈していいのでしょうか?

実は問題は彼の忠誠心や報いにあるのではなく
「なぜ信心深くかつ隣人に施しをしていたヨブが
 こうした過酷な試練に会わねばならなかったのか?」
というところのあるのではないでしょうか?
それは、この恐ろしい不幸は単なる神の気まぐれによるのでもなく
サタンの悪意によるのでもないということだと思うのですがいかがでしょうか?

もちろんその「答え」は聖書自体には記されていません。
はるか時代を下った近代になっていくつか解釈が試みられていますが
その代表ともいえるものはC.G.ユングが書いた『ヨブへの答え』があります。
彼はその中で
「ヨブには何一つ神に対するやましい気持ちがなかったばかりか
 周りの誰よりも神に忠実で、いかなる誹謗中傷があろうと
 決して神を裏切らない自信を持っていた。
 すなわち、ヨブは自分には誰にも負けない信心があるという驕りを持っていた。
 この驕りこそがサタンが付け込む隙であったのだ。」
と書いています。


☆hiroking☆の【この世のすべて】-1

お分かりの通り「この世で生きるわたしたちの「認識」は危ういところで成り立っている。」
といえますし、おそらく誰もが
絶対と思われた「知識」や絶対と思った「判断」に裏切られたことがおありでしょう。

これはこれまでの歴史を見ましても、大多数の人が思っていた事柄が間違いだった。
ということが判明することが多々あるのが事実です。
中世の西洋人は地球は平らだと信じていたにも拘わらず
いとも簡単に間違いだと証明されました(簡単に受け入れられたということではない)。
そしてこれはほんの一例であり、わたしたちは何百年、何千年にも亘って
誤った認識を持ち続けていたことが判明したことも何度もあります。

そして現代科学にしましても、今は最高の認識手段のように思われていますが
そう思っている現代人も、遠くない将来に愚か者と言われることになるかもしれません。
なぜなら、いつから始まったとも知れないわたしたちの長い歴史を振り返ってみますと
わたしたち人類は一度も永遠不変の真理など発見したことがないからです。
これまで何度もわたしたちの認識は修正され
または何度も全く新しいものに置き換えられてきたのが歴史の事実だからです。


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ヨブは、絶対的な自信を持っていた自分の信心に
実は「驕り」という悪魔が潜んでいること
自らの「意識の中の欠けている部分」に気づかなかったのです。
そしてそのため
「自分の認識に対する過信が大きなしっぺ返しとなって彼を襲うことになった。」
ということです。

ですから、わたしたちはイエスの説いた「愛」に
そうした落とし穴があることに気づく必要があるということ。
真の意味に気づく必要があるということ。
そしてそれはあえてイエスがいわなかった
「両極性の世界での認識のからくり」だということです。
『私はこんなにもあなたを思っているのに』『私はこんなにも他人のために尽くしているのに』
『こんなにも家族のために一生懸命働いているのに』などなど
例を挙げればきりがありませんが
『これらは全て自分の「高慢な驕り」から出てくる言葉である。』ということを
理解する必要があるということです。


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わたしたちは「見返りを求めてはいけない。」と思いつつも、ついつい求め
「誰それのため」「何々のため」といいながらも
その「誰か」または「何々に依存している。といえると思います。
ですから「真に隣人を愛する。」ためには、まずこの心の闇と向き合う必要があります。
そしてもしこの「闇」と向き合うことができたとしましたら
わたしたちはそこに悪魔の囁きを聞くことになるのではないでしょうか?
わたしたちには針の先ほどの些末なことにしか思えないこの「過信」とは
氷山のようにその下に巨大な「驕り」を抱えているのです。
はたしてわたしたちは、今世でそれと向き合い認めることができるでしょうか?

わたしたち一人一人が自分自身の中に
アガペー「精神愛」「純粋な精神愛」を実現しようと思うなら
このことを認めなければ実現は遠く及ばないということです。
つまり平安と歓びをもたらす真の「愛」は、両極性の認識を超えた先に
初めて見えてくるものではないかと思うのですがいかがでしょうか?
是非一度お考えになってみて下さい。

それでは今日はこの辺で・・・・・


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